LUNKHEAD曲解説ブログ,  アルバム,  月と手のひら

グッド・バイ

グッド・バイができたのは、2004年の暮れぐらいだっただろうか。
この曲ができた時、ビクターの江藤さんという偉い人がすごい喜んでくれた。
こういうの待ってたんだよ〜!
と。
ボビーも盛り上がっていた。
わりとみんな盛り上がっていた。
でも
曲はポップでキャッチーなのに
歌詞が寂しすぎるので
ライブでまったく盛り上がらず
だんだんやらなくなってしまった…

冒頭から全体的に入ってる
ピロピロピロ〜って音
あれは実は全部俺のギターの音なんです。
タネを明かすと簡単なことで
速度を半分にして再生したオケに
ギターを弾いて録音する。
それを普通に再生すると
倍の速さになって音は1オクターブ上にあがる。
するとああいうふうにピロピロピロ〜っと聴こえるわけです。
当時は、そういうおもしろいことが何かできないかな〜?といつもみんなで考えていた気がする。
ビクタースタジオのゴミ箱の中にマイクを置いてアンプの音を拾ってみたり
手拍子のところを全員ズボンを脱いで椅子に座って太ももを叩いてみたり
映像がない、音だけの世界だからこそできるおもしろい表現を常に探していた。
バカみたいだけど真剣に。

俺らが千川通りは夕風だったをリリースする前
渋谷タワーレコードに
サンダー白鳥という女性の店員がいた。
サンダーはすごい俺らのことを応援してくれていていた。
なんかやたらライブに来てくれるタワレコの人おるな〜と思ってたら
気づいたらサンダーは直球に入社する事になった。
千川通りがリリースできたのはほぼサンダーのおかげ、と言っても過言ではないくらい
そのタワレコ時代の経験と繋がりを駆使してプロモーションしてくれた。
ボビーが別件で忙しい時は
俺らとサンダーで地方までライブしに行ったりしてたなあ。
サンダーはずっと鬱だった。
よくなったり悪くなったりを繰り返して
だましだましやっていたけど
2004年、地図が出る前ぐらいかな
ずいぶん悪化してしまって
ボビーが一度宮城の実家に帰した。
ちゃんと直して戻ってこい、と。

地図をリリースした後の
初めての東名阪ワンマンサーキット
しれもの魂で候〜東名阪ワンマンライブ〜
その初日の名古屋の日
7月15日に
サンダーは死んだ。

鬱は治りかけていたけども
鬱は治り際がいちばん危ないとも聞く。
どん底にいる時は何も見えないけど
治ってくると
自分で自分が見えてしまうから。
サンダーは睡眠剤と安定剤のオーバードーズで亡くなってしまった。
お母さんが発見して
救急車じゃ間に合わないから
タクシーで病院に向かう中で
サンダーは意識を失うまでずっと
おかあさんごめんなさい
と繰り返していたと
後にサンダーのお母さんから聞いた。

サンダーは三月が好きだった。
いつも、山下忠ばりに三月三月と言っていた。
かっこよくタバコを吸って
そしていつも笑っていた。

(Vo.G.小高芳太朗)