三月
2003年の冬だった。
俺は、安易に大丈夫だとかがんばれとか歌う曲が好きではなかった
なんもしらんやつに大丈夫と言われても
おまえになにがわかるんだ
と、思っていた。
なのに世の中には大丈夫大丈夫が溢れかえっていた。
俺はなんだか虚しかった。
結局、世の中安易なやつらばっかりだ。
大丈夫と歌っておけば満足なんやろ。
半ばやさぐれた気持ちで作った。
歌詞も曲もすぐできた。
誰かが迷わずに歩いた100キロよりも
君が迷いながら歩き出すその一歩は
という歌詞
早稲田大学には100キロハイクという伝統行事がある。
(詳しくはググッていただきたい)
簡単に言うとそのまんま
埼玉のてっぺん早稲田の付属校の本庄高校から
早稲田の大隈講堂まで歩くっていうイベントで(厳密には105キロちょっとある)
1度だけ参加したけど
生きてきた中でいちばん辛かった。
100ハイは必ず雨が降るというジンクスを信じず、雨具など一切持って行かなかったらしっかり雨が降り、ジーパンはビショビショ
夜中は気温が下がり
冷えと疲労のせいで関節という関節が割れるように痛み
足の裏のマメが潰れたほうが痛みが分散されて楽に感じたほどだった。
普段、駅から大学までは歩いて15分くらいだけど
100ハイからしばらくは痛みでゆっくりとしか歩けなくて1時間近くかかった。
っていう100ハイの思い出を思い出しながら書いた。
とにかく投げやりに作っていたので
スタジオでみんなでアレンジする時も
イントロ…いらんのんじゃない?
リイントロも…いらんのじゃない?
ギターソロ…サビと同じコードでいいんじゃない?
みたいに実に雑に出来上がっていった。
初めてライブでやったのは
2003年の3月
今はなき渋谷屋根裏だった。
リハからライブが始まるまでヒマだったので
悟と喫茶店に行って時間を潰していた。
カフェドクリエだったっけ…
コーヒーを飲みながら
新曲のタイトルどうしよう?
三月でいいんじゃない?今3月だし
みたいな感じで
タイトルまで適当に決まってしまった。
そんな三月は、ものすごくウケが良かった。
世の中へのアンチテーゼのつもりで
投げやりに作った曲がウケると
それはそれで腹立たしく
やはりそんなものかとがっかりもした。
誰しもがいい曲だと言ってくれ
お客さんは泣くし
ビクターの人達も超気に入って
シングルでもないのにMVまで作ることになったし
山下忠は未だに会えば三月三月とバカの一つ覚えのように言っている。
最初に書いたように
知りもしない人に向かって安易に大丈夫と歌うのは嫌だった。
しんどかった。
でも歌うと喜ばれるので歌い続けた。
でもいつからか、だんだんわかってきた。
言葉はただ言葉じゃない。
キライ
といっても言い方や表情で意味が変わる。
その言葉をどう使うかだ。
三月を聴いて泣いたり喜んだりしてくれる人は
俺が歌う「大丈夫」だから泣いたり喜んだりしてくれるんだ。
これはうぬぼれじゃなくて責任だと思う。
自分が大丈夫と歌うことの責任。
そこから曲を歌う心構えが変わった。
大事に歌うようになったし
心の底から大丈夫だと思って歌うようになった。
みんなに教えてもらった。
みんなが曲を育ててくれた。
ずっと歌い続けてる
大事な曲です。
(Vo.G.小高芳太朗)