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夜行バス

メジャーデビューアルバム地図は
ほとんどインディーズ時代のベストアルバムと言っていい。
その中で、夜行バスはまっさらの新曲として書き下ろした。
(と言うとかっこよすぎるけど)

なんか、Syrup 16gみたいな
ダルでアダルトで凝ってる曲を目指して作り始めたんだけど、さっぱりそうはならないのが
きっとLUNKHEADのLUNKHEADらしさ、なのだろう…きっと…

ライブで披露しないままレコーディングに臨んだので
スタジオ音源はかなり実験的なものになってて
当時はレコーディングでは壮より俺の方が遥かにギターをダビングしてたので
この曲も俺がかなりギターを弾いてる。
5本か、6本か、
エンディングのギターはほぼほぼ俺が弾いてると思う。
夜行バスの、なかなか眠れないまま空が白んできちゃったナァって感じのあの朝感をエンディングで表現したかった。
ウェザーニュース感、というか。

2サビ後の静かになるところは
龍が、時計のカチカチ感を表現するために
めちゃくちゃ頑張って音作りをしていた。

基本的にメジャーA進行で
サビからメジャーGになってリイントロでまたバツンとメジャーAに戻る転調の展開とメロディの絶妙さがすごく気に入っている。
あとリイントロで一瞬、俺と悟がユニゾンになるところも気に入っている。

あまりに多重録音したので
とてもじゃないけどスタジオ盤を4人では表現しきれる訳もなくて
ライブでどうなるんかな?と思ってたけど
長い年月を経て、収まるところに収まり
エンディングの俺が多重録音した部分は
山ちゃんがなんとなくうまいこと弾いてくれてて
(あそこ最近俺のパート弾きよるよな?といつか聞いたら、なんかそっちの方が弾きたくて、みたいな。そんなもんです。)
REACTで再録した時なんか、音源として4人でしか演奏してないのに
アレンジ的にも音圧的にも
まったく物足りなさがなくてびっくりした。

新居浜で育った俺だけど
母方の実家も父方の実家も関東だったので
盆暮れは千葉の母方の実家に帰っていた。
電車で帰る事もあったけど
夜行バスで帰る事も多かった。
新居浜の別子病院の向かいの瀬戸内バスの停留所を夜の7時頃に出て
浜松町の停留所に朝の5時半くらいに着いてたのかな?
そこから電車乗り継いで
総武線に乗って
千葉のばあちゃんちに帰っていた。

当時は車酔いしやすかったので
母がいつも窓側の席をあてがってくれていた。
消灯してからも
カーテンの奥に身を潜めて
流れ行く景色をただじっと眺めていた。
暮れは車内と車外の寒暖差で窓が結露して
本当に
街灯や街の光が
ビー玉をばらまいたように見えた。
あの、幼心に、心細い感覚は忘れる事はない。
だけどそれは決して嫌な思い出ではなく
あの心細い気持ち、漠然と不安な気持ちは
なにか新しい場所に行くような
不思議な高揚感を伴っていた。
(ただばあちゃんちに行くだけだが)
見ず知らずの人達がバスの中で
話す訳でもなく押し黙って一夜を共に過ごす
あの感覚
命を共有し合う感覚
妙に死生観を喚起されたものだった。

その思い出を、目に映っていた景色を
ただ言葉にして、歌詞を書いたら
壮は、村上春樹の
海辺のカフカを連想した、と言った。
俺はその時は海辺のカフカを読んでいなかったので
へえ、と思っただけだったけど
後に読んで
ああ、なるほどなあ、と思った。

歌詞が未だにとても好きで
全部好きで
俺の幼少期、思春期が
全部この歌詞に含まれているような気がする。

ちなみに、母方の実家で発見した
母が50数年前にいとこの兄ちゃんから3万で買ったというHOTAKA(モーリスの前身ブランドで当時、長野県穂高町に工場があった為のブランド名と思われる)アコースティックギターも
夜行バスに乗せて新居浜まで持って帰った。
あれが俺の音楽人生の始まりだった。
中二の冬。
そして、そのアコースティックギターを
今も俺は使っている。

母が、50数年前にいとこの兄ちゃんからアコースティックギターを買ってなかったら
そのアコースティックギターを処分していたら
あの日俺が実家でそのアコースティックギターを見つけなかったら
LUNKHEADは存在していなかったと思うと…
お母さん、本当にありがとうございます。

(Vo.G.小高芳太朗)