僕らの背中と太陽と
誰もいない
夜の新居浜市民文化センターの屋上に忍び込んで
呑み方なんて知りもしないくせに
酒を呑みまくったのは
大学2年の夏
2000年の夏だった。
その頃まだ新居浜に両親が暮らしてたので
夏休みに帰省して
高校の時の仲間と集まった。
龍と俺とあと何人か
5、6人くらいかなあ
あと誰おったかなあ…(壮と悟はいなかった)
集まって、どうしよう?
文センの屋上行ってみよや!
ってなって
鎖1本に立ち入り禁止の札がかかっただけの
ザルセキュリティをくぐり抜け
俺らは新居浜市民文化センターの屋上に忍び込んで酒を飲みまくった(犯罪です)
そして夢を語り合った。
2000年夏
壮と悟が1年遅れで上京してきて
やっと東京でLUNKHEADを始めたものの
ライブハウスのオーディションライブを受けるためのテープ審査で落ちていた頃だ。
今思い返しても
テープで落ちるって
どうしようもなく絶望的な話で
おまえらそもそもバンドやる資格ない
って烙印を押されてるにも等しい
にも関わらず
根拠のない自信と夢と野望だけがあった。
そしてあの日
ほんとにみんなで朝陽を拝みながら
それはもうめちゃくちゃ眩しい朝陽に照らされながら
ああ、俺ら青春しよるなあ
と、じーんときて
そんで、また会おうぜって言って解散した。
もしLUNKHEADを実写映画化するなら
必ずなくてはならないシーンだ。
それから5年半経って
2005年暮れ
ライブハウスのオーディションライブのテープ審査に落ちていたバンドはメジャー3枚目のアルバムを作っていた。
そして、今振り返ると
だいぶ早い段階だったんだなと思うけど
龍がバンドやめたいと最初に言いだした頃だった。
アルバム2枚出して思ったようには売れなかったことも理由としてはあっただろうし
肘を痛めたりヘルニアになったり
周りは社会人3年目で
そろそろ結果を出すやつも出始める頃で
金銭的にも肉体的にも
将来が不安だったんだと思う。
2006年に入ってすぐかな
カナリアボックスのMV撮影の日
高円寺の中華料理店大陸(今はもうない…)に
朝6時入りで
撮影が終わったのが日が暮れたぐらいの頃
さすがにクタクタだったけど
ちょっと4人で軽く打ち上げしようや、と
高円寺のホルモン屋さんに入った。
そこで俺は
僕らの背中と太陽との歌詞を
メンバーに見せた。
これが、今の俺の気持ちだ、と。
これは、俺からのメンバーへの(特に龍への)
ラブレターだった。
結局龍はそれから4年後にやめてしまったんだけど
この曲を歌う度、未だに
あの日のホルモン屋さんを思い出す。
(多分、壮も悟も忘れている。龍は多分覚えている)
これが、今の俺の気持ちだ、と
A4の紙を見せたあの時を。
どれだけ美談にしても
夜中に文センに忍び込むのは犯罪だし
もしクレームきたらどうしようとか
発売中止にならないかなとか
ちょっとだけ不安だった。
けど、一切なかった。
なんなら、俺らその後
新居浜市の成人式に呼ばれてライブしたことがあるんだけど
まさに新居浜市民文化センターのステージで
900人くらいの新成人を前に
僕らの背中と太陽とを熱唱しても
市長から教育委員会長から
新居浜市のあらゆる偉い人から
素晴らしかった!!
と喝采され
母校の新居浜西校の学祭に呼ばれて
全校生徒の前で熱唱しても
校長先生から教頭先生から
あらゆる先生から
素晴らしかった!!
と賞賛され
(マネするやつがおったらどうするんや!!とか、怒らないんだナァ…と逆に心配になった…)
そして未だに屋上に繋がる階段は
鎖一本に立ち入り禁止の札がかかってるだけの
ザルなセキュリティで
東京の生活が長くなったから忘れてたけど
新居浜はこれで大丈夫なんだ。
ほんとうに
愛媛県新居浜市
好きだなあ。
(Vo.G.小高芳太朗)